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01 キムチの起源
02 キムチの栄養と乳酸発酵
03 ニンニクの原産地と語源
04 唐辛子伝来の歴史
05 ショウガとウコン
06 稲の原産地と日本
07 焼きたてパン信仰
08 エゴマはゴマではありません
09 箸の文化は日本の文化です
10 焼き肉文化と韓国の肉食の歴史
11 日本の食文化・刺身の起源
12 韓国の冷麺スープを考える
13 ジャガイモと馬鈴薯
14 メンマの由来と味付けメンマ
15 宵越しのお茶は体に悪いのか
16 お粥は消化吸収が良くない
17 ごぼうにアクはありません
18 蕎麦の原産地と日本への伝来
19 もつ鍋のコラーゲン
20 砂糖の伝来
21 ドングリは食用になるのか
22 サツマイモの伝来とアグー豚
23 蒟蒻(こんにゃく)の伝来
24 日本の肉食禁止の内実
25 パンとご飯 どちらが痩せる?
26 辛いものは脳に悪いか
27 日本の割り箸の種類
28 冷麺は寒い冬の食べ物だった
29 中国がキムチの起源を主張
30 世界の食用油 食用油の種類
■ 蕎麦(そば)切りの語源
現在のような「麺」になったのは、 寛永年間(1624~1644年)に朝鮮僧の元珍が小麦粉を「つなぎ」に使うの技術を伝えてからです。
そして、今までは「蕎麦団子」や「蕎麦掻き」として塊であったものを、細く切ったので、これを「蕎麦切り(そばきり)」と称しました。
新しいもの好きで、気が短い江戸の庶民に大いに受け入れられました。これが寛文の頃で、価格も廉く、手軽で、小腹を満たすには丁度良かったのだと思います。
また、「手打ち蕎麦」と言う言葉は宝暦(1761年)以降からで、元禄(1688年~)時代にはまだ「蕎麦切り」と呼ばれていました。
不思議なことに、江戸は当時のどの都会より蕎麦屋の数が多く、大抵の町には蕎麦屋の一軒や二軒はあったそうです。
当時小麦は高価で、その影響は今日まで続き、今でも「うどん好きは金持ち、そば好きは貧乏人」等と言う人がいます。
蕎麦全書
■ 江戸時代の蕎麦の薬味
寛延四年(1751年)の「蕎麦全書」によると、蕎麦の薬味として、乾松魚(現代の鰹粉末のようなもの)、辛味大根、橘皮、焼味噌、唐辛子、山葵、海苔、梅干、葱、等が挙げられています。これを見る限りでは現代と余り大きな差はありません。
■ 薬でもないのになぜ薬味
例え、蕎麦の薬味に薬効はあっても、量が量ですので、大した薬効があるとも思えませんが…
では、なぜ薬でもないのに「薬」の字が使われるのでしょうか、。
もともと「薬味」は漢方の医学用語で、中国最古の本草学の書「神農本草経」に食べ物には「甘、苦、酸、辛、鹹」の五つの味(五味)があり、それぞれが五臓(肝・心・脾・肺・腎 )の機能に関係していると述べています。
宋代になると、医療が庶民にも普及し、医師の処方箋以外どこの家庭(中国の家庭の話)にもあるようなものは、薬効を増す為に薬を煎じるときに「自分で加えなさい」と言うことで、処方箋にそれが付記されました。
この習慣が日本に伝わり、どこの家庭にもあるようなものは「加薬味」として浸透していったようです。
つまり、これが関西で言うところの「加薬(かやく)」です。
今でも東京は薬味と言い、大阪では加薬です。
■ ダッタン人
韃靼(だったん)の呼び名は、時代と場所により指し示す民族が異なるようですが、基本的にはモンゴル高原からリトアニアにかけての幅広い地域にかけ遊牧生活をしていた、モンゴル系、テュルク系、ツングース系の民族を指します。
日本では中国から伝わった「韃靼」を用いてきましたが、最近はロシア語風にタタールと表記するようになっています。
そもそも「韃靼」は字が難しい!
■ 苦蕎麦と甘蕎麦:
韃靼蕎麦(ダッタンソバ)は、普通の蕎麦が「甘蕎麦」と呼ばれるのに対し、えぐ味があるので「苦蕎麦」と呼ばれる、と思っていたのですが、どうやら違っていたようです。
中国で「韃靼」は差別用語とされ、「韃靼蕎麦」は「苦蕎麦」と表記されるそうです。少数民族が複雑に絡み合う国家の難しいところなのでしょう。
■ 上の白いのが普通の蕎麦で、下の薄緑の花が韃靼蕎麦
ルチン
■ 韃靼蕎麦の栄養成分は、ルチンを除けば普通の蕎麦と差ほどの違いはありませんが、なんとルチンの含有量は蕎麦の約100倍あり、機能性食品として注目されています。
日本では韃靼茶としての利用が主で、北海道を中心に栽培面積が徐々に増加しています。
■ 合類日用料理指南抄(1643年)
東京国立博物館
過呼吸の対処と改善(PDF)
実戦操体法研究会
So What
そば(蕎麦)の原産地と日本への伝来
東海道五十三次 水口 北斎
東海道五十三次 水口 北斎
ソバ(蕎麦)はタデ科の一年草で、アジア内陸部、ヨーロッパ各地、南ヨーロッパの山岳地帯、南北アメリカ等で栽培されています。
原産地は、東アジア北部、アムール州の上流沿岸から中国北東部にわたる一帯とされて来ましたが、最近では中国西南部山岳地帯の雲貴高原だと言う説が有力になっています。
中華人民共和国南西部の高原 雲貴高原
雲貴高原は、中華人民共和国南西部の高原の雲南省と貴州省にまたがる地帯で、 雲南省中部の哀牢山脈よりも東、東南丘陵よりも西の一帯に広がています。図の赤が雲南省、●が雲貴
埼玉県岩槻市の真福寺泥炭層遺跡
日本への伝来は諸説があり、①朝鮮半島から対馬 ②シベリアから北日本 ③中国から九州等が主なルートとして考えられていますが、原産地が中国西南部山岳地帯であれば、稲の伝来と同じルートを辿ったのではないかとも推測できます。
いずれにしても日本への伝来は古く、縄文時代には既に栽培が始まっていたことが、埼玉県岩槻市の真福寺泥炭層遺跡(B.C.900~500年)から蕎麦の種子が出土したことで確実視されています。また、最近の考古学的研究の成果として、高知県佐川町の地層から見つかったソバの花粉から、縄文時代草創期(約9300年前)には既に栽培されていたのではないかとも推定されています。
続日本書紀 文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)までの95年間の歴史
続日本書紀
文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)までの95年間の歴史 全40巻
「続日本紀」に、元正天皇の「勧農の詔(みことのり)」(養老6年)に、救荒作物としてその植え付けを勧めている記録がありますので、この頃には栽培が始まっていた確実な証となります。文献上「続日本書紀」はそばに関する記述では最古のものとなります。
しかし、そばが縄文時代から栽培されていたにも関わらず、食料として余り発展しなかった理由として、製粉が難しかったことが挙がられています。
当時の(縄文時代)の摺り臼では甚だ効率が低く、多くの時間と労力を必要とし、日々の食事の糧としては敬遠されたのだと考えられます。同じ理由から小麦もまた余り利用されることが無かったようです。
群馬県深町遺跡出土の縄文時代の摺り臼
群馬県深町遺跡出土の縄文時代の摺り臼
ころが、鎌倉時代(1241年)に入ると、宋から帰国した聖一国師が、水車を利用した碾き臼の技術を持ち帰り、製粉技術は著しく進歩し、そばは急速に普及します。
 聖一国師(1202~1280)年)
聖一国師(1202~1280)年)
聖一国師:鎌倉時代に僧侶の最高位である「国師」の称号を日本で初めて授けられた天台宗の僧侶。
34歳の時に宋へ旅立ち、6年間禅宗を学んだ後、仏書千余巻と共に様々な文化や技術などを持ち帰りました。
この時、持ち帰った技術の中に水車を利用した碾き臼での製粉技術があり、日本の製粉技術は飛躍的な発展を遂げます。また、持ち帰った茶の実を駿河国安倍郡三和村足窪(現足久保)に蒔いたとも伝えられています。
そば(蕎麦)は江戸庶民の文化
蕎麦が現在のような形で食べられるようになったのは意外に新しく、江戸時代も中期以降になってからのことです。それまでの蕎麦は蕎麦粉だけの生粉打ちだったと考えられ、「つなぎ」を思いつかなかった為に、ボソボソ状態で麺線に加工、成形することが難しく、 寛永年間(1624~1644年)に朝鮮僧の元珍が小麦粉を「つなぎ」に使う方法を南都東大寺に伝えるまで、「蕎麦錬り」や「蕎麦団子」として味わう以外に手はありませんでした。
実際に江戸初期の寛永20年(1643年)の「料理物語」や、焼鳥の料理法が掲載されている最古の書籍として有名な、元禄2年(1689年)の「合類日用料理指南抄」には、このボソボソの蕎麦を上手に麺線に加工する方法として、おも湯や豆腐をすり潰したもの、蕎麦粉の一部を熱湯で糊化させたものを全体に混ぜ合わせる等々が紹介されています。

花街模様薊色縫 豊国
蕎麦切り誕生以前から素麺や饂飩(うどん)があったのに、何故か小麦粉は蕎麦には使われませんでした。
話しは全く異なりますが、江戸時代に種子島へ伝来した火縄銃は鉄砲鍛冶の努力で急速に進歩しましたが、長い間銃身の片側を塞ぐ方法に思い至らず、明治に入って初めて「ネジ」の存在に気付いています。改造、改良を得意とする民族性である筈なのに、実に不思議なことです。蕎麦にもこのことが言え、全く不思議としか言いようがありません。
一方、小麦粉を使う方法が周知された後も、小麦が高価であったことや、収穫が困難であった地域では、卵や山芋(自然薯)、ワラビ粉、豆汁、大豆粉等々と様々な手段でボソボソの蕎麦をつないでいます。
お隣の朝鮮半島生まれの冷麺も、事情は全く同じで、半島の北では小麦の収穫がままならず、緑豆の澱粉でつないでいます。
東海道五十三次の内 見付の宿 北斎
東海道五十三次の内 見付の宿 北斎
江戸の街では宝永(1704~1710年)の頃まで、街道の立場(たてば)より外には、食事ができる所が全く無く、享保(1716~1735年)の中頃までは、丸の内から浅草観音に行くまでの途中には何も無く、弁当や水筒を持たない者は、大変困ったそうです。
それが宝暦(1751~1763年)前後になると、中橋広小路(中央通りと八重洲通りの交差点辺り)に煮しめを売る店が5,6軒、今川小路(神田の旗本、今川家の屋敷前通り)に蕎麦を売る店が2,3軒できたそうで、寛延(1748~1750年)の頃には奥州街道の道筋の室町に、本町(関東大震災後の区画整理で町名改正があり、今の町名の場所ではない)の辺りに2,3軒食べ物ができた程度だったようです。

二八蕎麦(そば)の語源と由来
今様美人揃 歌川国貞
今様美人揃 歌川国貞

 蕎麦屋は当初「荷売り」と言って、屋台を担いで売り歩くスタイルでした。寛文元年(1661年)の12月に「夜町中を荷売りしてはならぬ」と言う禁令が出ていますので、この頃には荷売りは既に一般的な行商スタイルだったことが判ります。
図は「夜蕎麦売り」の中でも「風鈴蕎麦」と呼ばれる荷売りで、風鈴が二つ描かれていることが判ります。安価な夜鷹蕎麦よりも値段がやや高めで、こちらは「かけ蕎麦」に具を載せていました。

當穐八幡祭 夜蕎麦売りの屋台 歌川国貞
また更に、寛文10年(1670年)7月には、「暮れ六ッ以後に荷売りをしてはならぬ」とあり、貞享3年(1686年)11月には、饂飩蕎麦切りは火を持ち歩くのでならぬ、として禁じています。因みにこの頃、蕎麦麦(当初は蕎麦切りをこう呼んでいた)1杯の値段がおよそ6、7文程度でした。
時代が進むと共に「担ぎ売り」から、店を構える「饂飩屋」が現れ、宝歴(1751~1763年)の頃には「饂飩屋」から「蕎麦屋」へと名が変わったようで、この頃に蕎麦は1杯が16文になりました。つまり二八で16文、三八だと24文だと理解されていたようです。江戸時代は語呂合わせと洒落の時代です。諸説ありますが、私が考えるに、「二八蕎麦」は16文の蕎麦だと言うことだったのだと思います。そしてこの「二八蕎麦」が蕎麦の代名詞のようになっていったのが「二八蕎麦」の語源であり、由来だと推測しています。