食の雑学 その13
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食の雑学 
 食の雑学 
01 キムチの起源
02 ニンニクの原産地と語源
03 唐辛子伝来の歴史
04 ショウガとウコン
05 稲の原産地と日本
06 焼きたてパン信仰
07 エゴマはゴマではありません
08 マーガリンに潜む危険性
09 箸の文化は日本の文化です
10 焼き肉文化と韓国の肉食の歴史
11 日本の食文化・刺身の起源と歴史
12 韓国の冷麺スープを考える
13 ジャガイモと馬鈴薯・日本への伝来
14 メンマの由来と味付けメンマの起源
15 なぜ宵越しのお茶は体に悪いのか
16 お粥は消化吸収が良くありません
17 ごぼう(牛蒡)にアクはありません
18 蕎麦の原産地と日本への伝来
19 もつ鍋のコラーゲンに美容効果はない
20 砂糖の伝来
21  ドングリは食用になるのか
22 サツマイモの伝来とアグー豚
23 蒟蒻(こんにゃく)の伝来
食の雑学・補足
 補 足
01 キムチの賞味期限
02 キムチと乳酸発酵
03 唐辛子日本伝来説に異論
03 馬鈴薯とジャガイモは別物!
04 パンとご飯 どちらが痩せる?
05 辛いものは脳に悪いか
06 キムチは日本起源?
07 中国がキムチの起源を主張
08 世界の食用油 食用油の種類
09 冷麺は寒い冬の食べ物だった
10 日本の割り箸の種類
11 日本の肉食禁止の歴史
ジャガイモ
三本マストのガリレオ船
徳川家康の命により三浦按人は、慶長10年(1605年)頃、伊豆の伊東において80トンと120トンの2隻の帆船を建造しました。
按人は故国イギリスにおいて2年間造船所の徒弟として働いていた経験から建造した帆船は、上図のゴールデン・ハインド号と同じ3本マストのガリレオ船であったと考えられます。

三浦按針
三浦按針 ウィリアム・アダムス
William Adams  1564年~1620年
フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・ザビエル
Francisco de Xavier 1506~ 1552年
平戸城
平戸瀬戸の平戸城
徳川家光
徳川幕府第三代将軍徳川 家光
アイルランド地図
アイルランドの地図
飢饉の直中にいる母親と二人の子供
アダム・スミス
アダム・スミス Adam Smith
1723~ 1790年
国富論
資本主義社会を初めて体系的にとらえ、分業と労働価値説とに基づいて自由放任主義の経済を説いた古典学派の代表作。
ジャガイモの花と実
ジャガイモの花と
珍しいジャガイモの実
Photo by (c)Tomo.Yun
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日本の伝統の色
Traditional Japanese colors 
 
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ジャガイモと馬鈴薯・日本への伝来
ジャガイモの伝来とオランダ人
ジャガイモはペルー南部のチチカカ湖近辺が原産地とされています。チチカカ湖の標高は3810m、湖面の60%がペルー領で、残りの40%がボリビア領です。
ジャガイモの日本伝来には諸説があります。伝来は慶長3年(1598年)とも、8年(1603年)とも云われていますが、いずれもオランダ人によりジャワ島のジャガタラから長崎に持ち込まれたとなっています。
呼び名の由来は「ジャガタラから来た芋」で、「ジャガタラ芋」と呼ばれ、それが転じて「ジャガイモ」になった云われています。
ジャガイモ

現在のジャガタラ(ジャカルタ)は、インドネシアの首都で、ジャワ島北西岸のチリウン川河口にある東南アジア有数の都市です。ジャワ島は東西に1040km と細長く、一番幅の広い場所でも、200kmしかありません。スマトラ島の東に位置し、観光地として有名なバリ島の西に位置します。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する島の一つです。
大スンダ列島
東洋貿易の覇権争いで、オランダがジャワ島に上陸(ジャワ島西部バンテン港)したのが1596年の6月で、その3年後の1598年に東印度会社を設立しています。
1603年にロッテルダム港を5隻で出航し、途中暴風雨や病と闘いながら、5隻の中の1隻(リーフデ号)だけが辛うじて大分県臼杵市に漂着しました。この漂着した中に後に三浦按針と名乗ることになるにウイリアム・アダムス(William Adams)がいました。この年が慶長5年(1600年)の4月9日で、日本に最初に上陸したオランダ人だとされています。
とすると、慶長3年(1598年)にオランダ人が長崎を訪れることは不可能で、ジャガイモもこの時に日本にもたらされたものではないことは確かなことになります。
また、島原の乱が寛永14年(1637年)で、この翌年、幕府は切支丹禁止令を出し、改宗に応じない者を長崎から追放しています。この中に日本へ宛てたとされる「じゃがたら文」で有名な、イタリア人との混血「お春」(~1697年)がいます。「お春」は「ジャガタラお春」と呼ばれていたことから、オランダ商館が長崎に移転(寛永16年の鎖国令強化で平戸から移転)した寛永18年(1641年)には、既にジャガイモがこの地に渡来していたと考えるのが道理です。 
それでは誰の手で、何時頃、日本に持ち込まれたのでしょうか。
ジャガイモはポルトガル船で渡来?
平戸のオランダ商館

平戸のオランダ商館 モンタヌス「東インド会社遣使録」
平戸は海上交通の要として多くの国から貿易船が訪れ栄えました。この地にポルトガル船が訪れたのが天文19年(1550年)で、フランシコ・ザビエル来日1年前です。この時、パン、ワイン、カステラ、タバコ等が日本にもたらされ、今でも平戸城敷地内に「日本最初のたばこ種子渡来の地」の碑があります。実はこの時、ジャガイモも一緒に持ち込まれたのではないかと私は考えています。
当時の日本人にとっては、ポルトガル人とオランダ人の区別はつかなかった筈です。恐らく今でもそうでしょうが…そのポルトガル人をオランダ人と誤認し、オランダ人が持ち込んだと、間違って伝わったのではないでしょうか。確かに持ち込まれた先はジャガタラなのですが、持ち込んだのはオランダ人ではなく、ポルトガル人だった訳です。オランダ船が初めて入港したのは慶長14年(1609年)で、ポルトガルに後れをとること20年です。
長崎の出島

長崎の出島
慶長14年(1609年)、オランダと日本は正式に国交を樹立し、平戸に長崎奉行が管轄するオランダ商館が置かれました。来訪したその年に確固たる拠点を築いてしまうあたりは、流石に大航海時代を支えた雄だといえます。
しかし、このオランダ商館は、倉庫に西洋の年号(キリスト生誕に関する西暦)が記されていたことが発覚し、それを理由(カトリック禁教令)に、寛永17年(1640年)11月9日に将軍徳川家光の命を受けた大目付井上政重により全ての建物が破壊され、寛永18年(1641年)に長崎の出島へ強制的に移転させられてしまいます。
オランダ商館取り壊しは、神の下の平等を説き、幕府の封建制とは相容れぬ教えに、危険な匂いを感じた幕府が、これを封じる為に行ったものであったとような気がします。
この取り壊しにより33年間の平戸でのオランダ商館の歴史に幕が下ろされることになります。長崎の出島への移転後は、出島内での自由が保障されましたが、出島以外の地への渡航は厳しく制限されました。
長崎港に停泊する南蛮船

長崎港に停泊する南蛮船の図
碧眼紅毛(へきがんこうもう)は青い目を持つ赤毛の西洋人のことで、日本人の手による江戸中期の造語です。当時はポルトガル人やスペイン人を「南蛮」と呼び、江戸末期に渡来したオランダ人やイギリス人は「紅毛」と呼ばれました。金髪は居なかったのですかネ。
因みにオランダの貿易船は「紅毛船」と呼ばれていました。いずれにしても幕府にとって、これ等の人々は「招かざる客」で、尊皇攘夷運動では神国を汚す「夷狄(いてき)」として排斥の対象になっています。…日本を大きく変える思想や哲学、技術や制度は、悲しいことにみな海を渡って外からやってきます…
ジャガイモと馬鈴薯は別物です!
学生時代から、「馬鈴薯」と「ジャガイモ」は別々の異なる植物で、馬鈴薯は中国の植物であると認識していましたが、その知識をどこで得たかは忘却の彼方で、全く思い出せないでいました。どこかの本で読んだのは確かなのですが、かすかな記憶だけで、その題名すら全く思い出せません。
江戸時代の学者小野蘭山が「耋莚小牘・てつえんしょうとく」(1807年)で、「馬鈴薯はジャガイモの中国での呼称」としたのが始まりですが、これは明らかな間違いです。
私には中国人の友人が大変多く、このことに関して何人にも尋ねましたが、異口同音に「馬鈴薯=ジャガイモ」と言う答えが返ってきました。中国でも日本の影響か、間違った呼称で認識されているようです。ところが、ネット上で念願の「馬鈴薯とジャガイモは別々の異なる植物」だと言う記述が見つかりました。これで馬鹿呼ばわりされずに済みます。
その内容の一部を紹介しておきたいと思います。詳しくは牧野富太郎氏の「植物一日一題」をご覧頂きたいと思います。文末に氏のサイトのURLを付記してあります。
牧野富太郎氏の「植物一日一題」からの転載:
ジャガタライモ、すなわちジャガイモ(Solanum tuberosum L.)を馬鈴薯ではないと明瞭に理解している人は極めて小数で、大抵の人、否な一流の学者でさえも馬鈴薯をジャガイモだと思っているのが普通であるから、この馬鈴薯の文字が都鄙を通じて氾濫している。が、しかしジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。
昔といっても文化五年(1808)の徳川時代に小野蘭山(おのらんざん)という本草学者がいて、ジャガタライモを馬鈴薯であるといいはじめてから以来、今日にいたるまでほとんど誰もこれを否定する者がなく、ジャガタライモは馬鈴薯、馬鈴薯はジャガタライモだとしてこれを口にし、また書物や雑誌などに書き、これをそう肯定しているのが常識となっているが、それは大きな間違いであって、馬鈴薯はけっしてジャガタライモではないぞと今日大声で疾呼し喝破したのは私であったが、しかし蘭山がジャガタライモを馬鈴薯だといった後五年しての文化十年(1813)に大槻玄沢(おおつきげんたく)は、この蘭山の考えている馬鈴薯をジャガタライモの漢名とするの説を疑い、これを栗本丹洲(くりもとたんしゅう)に質問したが丹洲もまたその説を疑ったということが白井光太郎(しらいみつたろう)博士の『改訂増補日本博物学年表』に出ている。
元来馬鈴薯というものは中国の福建省中の一地方に産する一植物の名で、それが『松溪県志(しょうけいけんし)』(松溪県は福建省地方の地名)と題する書物に僅かに載っているが、それがどんな植物であるのかは中国人でさえもこれを知らず、またかろうじての右の県志のほか、ありとあらゆる中国の文献には敢て一つもこれが出ていない。すなわち得体の分らぬ一辺境の中国土産の品で、中国人でさえも一向に知らないオブスキュアの植物である。
しかるにジャガタライモは元来外国産、すなわち南アメリカのアンデス地方の原産のもので、四三三年前の西暦一五六五年に初めて欧州に入り、後ち欧州から東洋に持ち来たされ、ついに我が日本におけると同様に中国にも入りこんだものである。この事実からみても、それが元来の中国植物である馬鈴薯ではあり得ない理屈ではないか。そして中国人はこの外来植物に対して適切な新命名の洋芋(洋とは海外から来た渡り者を意味する)あるいは荷蘭薯(オランダイモの意)などと称えていて、けっしてこれを馬鈴薯などと間違った名では呼んでいない。その間違いを敢てしているものはひとり日本人だけである。これはちょうど馬を指して鹿だといい、人を指して猿だといっているようなものであるから、この馬鈴薯をジャガイモと呼ぶことは躊躇なく早速に廃すべく、したがって馬鈴薯の名は即刻放遂すべきものだ。
植物一日一題 牧野富太郎 http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/46820_29303.htm
上記牧野富太郎氏への反論として、ある方からメールを頂きましたので、ここに掲載させて頂きます。参考にして頂ければと存じます。(文字色を変えてある部分)
「興味深く読ませてもらいました。牧野氏が問題した漢文を中国ネットで探し、いい論文を探しました。少し違いますね。これを読んでください。 http://www.exam8.com/lunwen/lixue/nonglinxue/200604/1054111.html 
この論文をよく読むと、1800年頃には中国ではすでにジャガイモの たぐい全部を馬鈴薯が正式名になっているので、しかも馬鈴に似ているから馬鈴薯としているので、牧野氏の指摘は不要なものと思います。しかも、元になる漢文が 少し違うこと。 葉 <- 菜、略如 <- 果如、味辛甘 <- 味甘辛 は問題です。
漢文調で訳すと、中国語で訳すのと少し違いますね。「菜依樹生」は菜は樹のように生育する、とも訳せませんか。掘って採る果子(芋)が馬鈴のようだから(色黒だったから特に)馬鈴薯とした。ジャガイモと同類でいいのではとも思いますが…」

多少中国語を解しますが、敢えてここでは私の返信内容を載せていません。皆さんはどうお考えでしょうか。
ジャガイモの伝播
ジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、コロンブスによる新大陸発見(1492年)以降で、更にヨーロッパ諸国へ伝播したのは1600年頃とされています。当初ジャガイモは毒植物と目され、観賞用植物(花が綺麗)として一部の植物学者に栽培されたのみで、食用に廻されることはありませんでした。
ところが世界各地への覇権により、奴隷の数が急激に増加したことで、食料の供給が追いつかず、試しにジャガイモを奴隷に食べさせたところ、大変喜んで食べる様を見て、初めて食用になることに気付いたようです。ある種の人体実験とも言える酷い話しです。
ジャガイモは寒冷地にも強く、また年に複数回(収穫まで凡そ100日間と短い)の栽培が可能なこともあり、食用になると知ったことで、瞬く間にヨーロッパ全土に波及して行き、養豚や食用にされたことで食糧事情が大幅に改善し、ヨーロッパは人口増加を下支えする食の保障が得られ、繁栄の時代を迎えることができました。
その後、1845年から1849年にかけて起こったジャガイモ飢饉は、アイルランド移民(プロテスタント系)を生み出し、ジャガイモはアメリカへ伝播してゆきます。
ハインリッヒ・アントン・ド・バリー

ハインリッヒ・アントン・ド・バリー  Heinrich Anton de Bary
1831/01/26~1888/01/19
アイルランドの農民は兄弟が等しく土地を分割相続できる為、それぞれが農地を保有し、地主に税金を納めなくてもよい庭先で、各自がジャガイモや他の農作物を栽培をしていました。よって当時のアイルランドでは、ジャガイモが唯一の食料であった貧農も珍しくなく、その貧しさに追い討ちをかけたのが、1845~1849年までの4年間にわたり、ヨーロッパ全域で蔓延したジャガイモの疫病でした。
アイルランドでは地主の多くが宗主国のイギリスに住み、かたくなにアイルランドからの食料輸出禁止に反対し、餓死者が続出しているにも関わらず、僅かな食料を輸出に廻し、己の収入確保に努めました。この結果、政府の救済(救済対象は土地を持たない小作人のみ)を受けられない貧農は、二束三文でその土地を手放してしまったことにより、アイルランドの食糧生産基盤が崩壊してしまいました。
このことにより、人口の2割以上が餓死するか病で倒れると云う惨状が現出し、新天地に活路を求めて10~20%の者が国を捨て、国外へ脱出して行きました。最終的に最盛期の半分に人口が激減したと云われています。
この大飢饉の発端となったジャガイモの疫病は、その原因となる菌が Phytophthora infestans であるとアントン・ド・バリーに特定される1867年まで、ヨーロッパのジャガイモ生産に壊滅的な被害をもたらし続けました。これはヨーロッパの栽培方法が、特定品種に偏った為に被害を拡大させたとも云われています。ジャガイモは無性生殖による栽培法が採られ、偏った品種の栽培は遺伝的な多様性が無くなり、病害虫に対応できなくなり、壊滅的打撃を受けたと考えられています。
 ジャガイモはアルカロイド系の毒を含むことで知られ、特に皮や芽、果実(国産では滅多に結実しない)に多く含まれ、緑色になった芽や皮は危険ですので、調理する際に必ず取り除く必用があります。
緑色がかった皮は新ジャガでよく見掛けることがあります。これを防ぐには「強い直射日光を避けた冷暗所に保管」するのが一番です。またジャガイモは保管時に簡単に芽が出て困りますが、リンゴを一緒に入れておくと発芽をある程度抑えることが可能です。
ジャガイモの芽

アダム・スミスがその著書「国富論」の中で「ジャガイモは麦の3倍の生産量がある」と述べているように、ジャガイモは人類を飢餓から救う食物として世界中で愛され、今や世界の4大作物とされています。
ウィキペディアによると、2000年の世界のジャガイモ生産量は約3億2100万トンで、最も多い中国が約6300万トン、次いでロシアの約3400万トン、インドの2500万トンと続きます。
 中国
 ロシア
 インド
 ウクライナ
 アメリカ合衆国
 ドイツ
 ポーランド
 ベラルーシ
 オランダ
 フランス
 日本
7346万トン
3728万トン

2363万トン
1946万トン
1909万トン
1162万トン
1037万トン
819万トン
678万トン
668万トン
275万トン
(22.7%)
(11.5%)
(7.3%)
(6.0%)
(5.9%)
(3.6%)
(3.2%)
(2.5%)
(2.1%)
(2.1%)
(0.85%)

また、2009/09/05の新華網によると「中国のジャガイモの栽培面積は過去10年で30%増加し、年間生産量は7000万トンを突破、ジャガイモの栽培面積と総生産量が共に世界首位となった。」とあります。
フランクフルトとウィンナーの違い
ドイツは養豚とジャガイモ料理が多いお国柄として有名で、当然ジャガイモの用途は、豚の飼料と伝統的な家庭料理用に使われます。
ドイツでの長い滞在経験のある友人によると、何処の家庭へ行っても、毎日毎日、朝も晩もジャガイモとソーセージで閉口したそうです。ところが、ジャガイモがことのほか美味しく、ドイツ人が毎日食べる理由が理解できたと言っていました。因みに食べたジャガイモは全て黄色だったそうです。
淡白な味のジャガイモはどのような料理にでも馴染む利点があり、華美を嫌う素朴な料理には最高の素材と言えます。
ところで、ジャガイモとお似合いのソーセージですが、フランクフルト・ソーセージとウィンナー・ソーセージの違いって知っています?
太さが違うのは一目瞭然ですが、味の違いは良く判りません。それはその筈で、日本ではフランクフルト・ソーセージフランクもウィンナー・ソーセージも太さの違いだけで、原料も作り方もほぼ同じです。
これが本場のドイツでは明確な違いがあり、フランクフルトは豚の腸を使い、ウィンナーは羊のそれを使います。豚は羊より大型の動物なので、その腸も太く、これを使ったフランクフルト・ソーセージは太いものになります。
また、豚肉8割に牛肉が2割の挽肉に、ニンニク、ナツメグ、胡椒で味付けするのがフランクフルト・ソーセージで、パプリカメースコリアンダー等のスパイスで味付けしたものがウィンナー・ソーセージです。
因みに、日本での両者の規格は、その太さが20mm未満をウィンナー・ソーセージ、20~36mmまでをフランクフルト・ソーセージ、牛の腸または人工皮で36mm超のものをボロニア・ソーセージと呼んでいます。現在では多くの製品が人造の皮(人工腸)を使っていますので、特に腸による規格はありません。
このソーセージに使われる人工腸、つまりコラーゲン・ケーシングは、1920年代にドイツで開発された方法で、動物性蛋白質のコラーゲンを分解、再加工して作られます。加工が容易なこともあり、世界各国で広く利用されています。動物性蛋白質以外にも植物繊維のセルロースを原料として作る方法もあり、燻煙の透過性があるので、こちらも広く利用されています。
カリカリのポテトフライを作る
家庭でカリカリの美味しいフライド・ポテトを作るのはなかなか難しようです。
冷凍のポテトをカリッと揚げるには、ポテトを入れても揚げ油の温度が下がらないよう多目の油と強い火力が必要になります。
多目で高温に熱した揚げ油に冷凍品を入れると、一瞬で表面の水分が沸点に達し、鍋の大きさに余裕がないと、確実に噴きこぼれ、悲惨な結果になります。
私の場合はシューストリング・タイプで、1袋に対して200℃に熱した6リットルの揚げ油(独自に調製したもの)を使用していました。
ポテトの投入時に噴き上がる蒸気は相当なもので、余程強力な換気扇でも備えない限り、油まみれ状態は避けられません。特にファンの貧弱なマンション(実証済み)では憂鬱の極みです。
一般に、フライド・ポテトは表面がカリッと揚がったものが支持されるようで、特にお子様にはシューストリング・タイプが圧倒的に喜ばれるようです。
尤も柔らかいものが好きなら、揚げたりせずに最初から、茹でたり、蒸かしたりすれば良いだけですが…
と言うことで、ここでは特にカリッと揚げるのが難しいとされる生ジャガを使ったフライド・ポテトを作ってみました。この方法だと、誰もが簡単に、少量の油でカリカリのフライド・ポテトが作れてしまいます。
用意するジャガイモですが、これは芽がでていなければメークイーンでも男爵でも構いません。ただ皮ごと使う場合はメークインが良いような気がします。
さて作り方ですが、最初に綺麗に洗ったジャガイモを茹でます。この時、皮つきの大人の味を好まれる方は皮のまま、皮つきが嫌いな方は剥いてから茹でます。
なお完全に火が通るまで茹でる必要はありません。私は大体7~8分目位にしています。
次に茹でたジャガイモを好みの大きさに切り分け、後は油に放り込むだけ。
信じられないでしょうが、これで難しかった生ジャガを使ったカリカリのフライドポテトが簡単に完成します。
かりかりポテト

ウーン チョット焦げたかな…!
クレイジーソルト

揚げたてにはクレイジーソルト!
 しかし、原産地が同じ大陸内でありながら、南米から北米へ直接伝播しなかったのが不思議です。

Traditional Japanese colors